2010年9月18日土曜日

新卒一括採用はどのようにして生まれ、定着したか

「『義務』あるいは権利。この二つのことばも、明治国家が翻訳してくれた言語遺産です」(『「明治」という国家〔上〕』司馬遼太郎著・NHKブックス)

現在の日本の新卒一括採用の礎が築かれたのは、明治時代である。「武士という、貧しくても誇り高く、形而上的に物を考え、よろこんで死ぬわけではないにしても、いつでも必要とあらば死ぬということを人生の大前提にして代々その精神を世襲してきたひとびとと、町人的合理主義をもつひとびと」(同上)がいた江戸日本で「圧倒的な商品経済(貨幣経済)の沸騰」(同上)が起きたまま明治へと時代が変わりゆくなかで、後者(町人的合理主義をもつひとびと)が熾烈な人材獲得競争への対策として、そして「義務と権利」の社会風潮の後押しのなかで編み出されていったのが、合理的な、新卒一括採用である。

「明治時代における、日本の労働者の労働移動は、世界の雇用史上最高の水準にあったと言っても過言ではなかった」(『日本雇用史』坂本藤良著・中央経済社)
日本は「新卒入社した会社に、多くの人が一生(終身)雇用される特殊な国」と言われることがあるが(少なくとも私はそう思っていた)、そんなことはない。若年離職率が、高卒・中卒よりも低い大卒でみても、30歳までに50%が転職を経験する(リクルートエージェント転職5万名調査<2007年>資料より)。金融危機後はその率は落ち込んでいるだろうが、ポイントは「条件が高いところへ労働者が移動する(転職する)習慣は、明治時代には既にあり、世界トップクラスだったと思われる」ということである。参考までに、職工の勤続状況を見てみると、大正期(私の手元資料の最古)では、男性の3年以下の離職率は57.9%である(HRmics AUG.-NOV.2009資料より)。

職工労働市場では、雇っても辞められる繰り返しと、そのための熾烈な人材獲得競争が明治時代には始まっていた。その対策として発明されたのが「(まだ仕事ができない)未熟練工を雇い、企業内学校で育て、一人前にする」仕組みである。八幡製鉄所(1910年/明治43年)幼年職工要請所設立、日立製作所(1910年/明治43年)徒弟要請所設立、などである。ゼロから体系立てて教えるから技能は当然身につき、感謝の念の裏返しとして忠誠心も得られる。この仕組みの成立とともに職工労働市場も供給が安定、「世界トップクラスの労働移動」「熾烈な人材獲得競争」は終息していく。

一方、商家の雇用制度はどのように変遷したか。結論を先に書くと、「かたちを変えて、子飼制と内部昇進制を柱とする日本型雇用制度となった」(「農民の時間から会社の時間へ:日本における労働と生活の歴史的変容」斎藤修著・一橋大学機関リポジトリ HERMES-IR)。

丁稚奉公から番頭へと出世する商家の雇用制度。そもそも奉公人とは「江戸時代、一定の年限を定めて、住み込みで商家の家業に従事(年季奉公)した者の総称」(kotobank.jp)であり「丁稚(でっち)は無給で、使い走りをしつつ、読み書き、算盤などを習得する。元服後、手代(てだい)に昇格、有給となる。番頭は管理職で、暖簾分けして独立する機会を持った」(同上)。重要なのは、この制度が「激しい競争淘汰システム」であったことだ。
まず、試用期間。短期間の試用で仕事が覚えられない人間は「暇」を出されて不採用。この一次選抜の通過率が7割。7~8年後に、初の「登り(実家に戻る休日)」がくるが、これが今でいう昇進試験。昇進を果たせなかった人間は(今と違って現職にいることはできず)「永遠の休日」となり、店に戻れない。昇進すると、中座というポジション。さらに7~8年後に二度目の「登り」がきて、これで上座・番頭クラス、三度めの「登り」で支配人、という流れだが、二度目の「登り」で上座・番頭クラスになれる確率は6~22%。さらに三度目の「登り」でも2~4割は脱落させられる(奉公人の昇進率については、前記・HRmicsより)。

この「大量採用・少数選抜」を「衣食住を提供しながら」「隷属的に」実行する雇用制度は、経営側(商家側)にも負担が大きかった。「経営者一家と社員は平等である」と宣言した三井銀行が1876年には通勤・給料制を始め、一般化していく。経営側の合理性、そして「義務と権利」の社会風潮が、通勤・給料制の一般化を推し進めた。

しかし、というべきか、当然の帰結なのか、通勤・給料制の移行は「厳選採用・精鋭育成」を生みだすことになる。丁稚奉公式の「大量採用・少数選抜」では無能社員(奉公人)は「暇」を出せば済んだが、こちらはそうもいかない。さらに、近代化の流れの中で、「実践型人材」よりも「(経営に関する)知識型人材」の必要が出てくる。そこで企業が目をつけたのが、官公庁に勤めるのが当然だった「旧制大学卒業者(明治後期で年間700名)」である。言わば、スーパーエリートたる「大卒」の人材獲得競争が「中途市場」で始まる。この先は職工と近く、「中途がダメなら新卒を」の発想で、1895年に三菱財閥筆頭会社である日本郵船、三井、1907年には住友が、大学卒業者の新卒定期採用を始めることになる。

こうして明治末期には、財閥各社を中心に大卒の定期採用が普及したが、現代に近い「多くの大卒者が毎年、各企業に一斉就職する」ようになったのは、第一次世界大戦(1914~1918年)後の大正中期であった。要因は2つある。ひとつは、企業側の人材ニーズの拡大。戦争成金の出現と海外展開の実行がその背景である。もうひとつは、大学令の発布により、専門学校の大学格上げ、商学系大学・学部の新設ラッシュである。大学生が急増した。1905年の准大学(官・私立専門学校)の卒業生は2900人、10年後の1915年は6400人である。同じ時期、大学卒(帝大卒)も700人から1600人に増えている。つまり、1915年時の、現在の大卒にあたる卒業生は、合わせて8000人だった。スーパーエリートたちである。

・・・・・・

95年の歳月を経た。
年間大卒者数は60万人になった。
この間、当時は「育てる、と言っても(経営に関する)知識は自分たちよりも上」であることが価値であったスーパーエリートたる大卒者は「知識も含めて育てる、教える」存在になった。「未熟練な若年労働力である大卒者を、知識も含めて育て、ロイヤリティを高め、社内適応人材にする」。それは、職工の企業内学校に近いものである。

企業内育成に主眼がおかれた職工による若年者採用。
エリートの早期確保に主眼がおかれた大卒者一括採用。
高度経済成長から低成長への突入、働き方の多様化、若年労働力人口の減少と、大学生の急増。数々の環境変化が起きているなかで、「企業内育成」「エリートの早期確保」の両輪が、さみだれ式に融合され、効果が測れないまま、明日も大学生の新卒一括採用はおこなわれる。

0 件のコメント:

コメントを投稿