2013年12月12日木曜日

インタビューのセンスと技巧(1)

困った。

のっけから大きなテーマを掲げてしまった。

毎朝、仕事前に神棚に向かって手を合わせているのだが

「忘れるな、感謝の気持ちと謙虚な心」

これが冒頭に唱えることだ。本当だ。



12月はブログを書く」

と言ってみたものの、何を書こうか考えてみて、やっぱりコラムを書きたいと思ったのであるが

コラムって確か、新聞社が「これ、うちの正式見解ではありませんよ」という位置付けを明確にするために、別枠を設けて囲った「別枠の弁」であったと認識している。

「別枠の弁」

である以上、仕事のしがらみを忘れて、少しは吠えたりするくらいの覚悟で臨みたいものである。

がるるる。



インタビューのセンスと技巧について考える。

私は「学生の前で、ビジネスパーソンに公開インタビューする」ことを生業にしている。専門家といえば聞こえが良いが、偏頗な仕事である。

名刺の肩書きは一貫して「ファシリテーター」であるが、公開インタビュアーとしての仕事が8割、進行・司会者としての仕事が1割、その他1割、といった具合である。

インタビューはファシリテーションに内包されるひとつであるし、3年以上、ファシリテーターを名乗って仕事を続けているので、「ファシリテーションのセンスと技巧」でもいいかな、と思ったけれど、会議や研修のファシリをやっている諸先輩方を思い浮かべてしまい、「インタビュー」に変えた。

・・・既にトーンダウン。わんわん。


公開インタビュアーのセンスとは何だろうか。

センスとはそもそも

1.物事の感じや味わいを微妙な点まで悟る働き。感覚。また、それが具体的に表現されたもの。「文学的な―がある」「―のよくない服装」「バッティング―」

2.判断力。思慮。良識。「社会人としての―を問われる」

のことであるらしい(コトバンクより)。


なるほど。

プロである公開インタビュアーとして「微妙な点まで悟る」べきことは?


まずは、セミナー中の空気。

4名(全員企業が異なる)のパネルディスカッション形式がほとんどなので

話者(1名)
自分が話す順番を待っている話者(3名)
聞き手(=学生。50500名)

三者の登場人物がいるのだが

聞き手である学生は白けていないか
話者は気持ちよく話ができているか
順番待ちの話者はどのような気持ちで他者の話を聞いているか

この三者の「空気」を「微妙な点まで悟」らなくてはならない。

「話者、ノリノリだなー。あと1分は話すなー。でも学生の体温あがってないなー」とか

「順番待ちのあの方、今の発言に、いかがなものか、くらいは感じてる顔してるなー」とか

「誰が聞いても美談だけど、学生の手が動いてないなー」とか。

やっかいなことに、同時に。

バレないように、良い聞き手である姿勢を保ちつつ、気を散漫にもっていなくてはならない。


もちろん、聞き手として、話者が出すサインにも、「微妙な点まで悟る」べき必要がある。

たとえば、語彙。

本日一番伝えたいことを、敢えて特徴あるワード、難しい言葉で放り込んだのかもしれないし(ここ突っ込んでね、という合図?)

単に場の流れで勢いで発せられた言葉かもしれないし(ご自身でも消化しきれていない言葉かも?)

迷い迷いで絞り出された言葉なのかもしれない(何を悩んだ上での言葉だろう?)。

語彙のみならず、言葉の発し方(トーンが下がったのか上がったのか)、表情や身ぶり手ぶりなどの言語外情報も同様である。

よくあるのは、話しながら、途中でチラッとこちら(私)を見る場合。

「私ではなく学生の方を向いてお話しください」と事前打合せで伝えているが、それでもこちらをチラッと見るのは、基本的には不安であることが多い(多数の学生に向かって話を続けるのは慣れていない人にとっては結構なハードルである)。

が、これもまた、私に対するサインかもしれない。もう少し話すけど、少しだからクチ挟まないでね、とか。

いずれにせよ、聞き手として、話者の語彙や言葉の発し方や言語外情報には当然ながら敏感であらねばならない。気持ちよく、本意を、自分の言葉で、学生が理解できるように、伝えてもらうためにも(難しい要求だ)。


もうひとつ、4名同時パネルディスカッション型の公開インタビュアーとして「微妙な点まで悟る」べきことは、関係性による影響。

異なる企業4社の、年次もバラバラな4名である。

話者同士、話者と私、話者と学生、私と学生。

相性、親和性、バランス。

4名同時パネルディスカッション型の利点は、学生が話の内容を比較しやすいことにあるけれど

一方で、たとえば話者同士が「なんかこの人、苦手」とセミナー開始前に思ったりしてしまえば、それだけで無用な緊張や硬い空気をつくってしまう。

実際、「中堅企業40代役員」と「大企業新卒入社2年目」とか、「厚み」の違いによって、2年目の方が必要以上に委縮してしまう、なんてこともありがちだ。

悪いことに、2年目の方の上司が見学という名目でチェックに来ていたりするとなおさら。

この場合、委縮した2年目の方は無難な話に終始しようとするけれど、無難な話と成功体験は採用ホームページ、採用パンフレットで青空のもと笑顔で語られれば良い。

こちとら目の前に学生がいるライブである。雨ひとつで開始前の空気が異なる生ものである。鮮度が命。らっしゃいらっしゃい。


では、こういった

「セミナー中の空気」や「話者が出すサイン」や「関係性による影響」の、「微妙な点まで悟る」力を、公開インタビュアーとしてのセンスとした場合、

そのセンスは、いつ、どのようにして身につけられるのだろうか。
生まれもって天から授けられたもの? まさか。


空気を読んだり、相手のサインを読みとったり、皆で話しているときに話していない人のことを気にかけたり、これは誰しもがやっていることである。

「言葉」というツールで、誰しもが行う「コミュニケーション」。

よっぽどの人でない限り、その「微妙な点まで悟る力」に大差は、ない。

とすれば、やはり、数十年かけて、結果的に身につけてきたと考えるのが道理だろう。

「昔から公開インタビュアーになるのが夢で、そのセンスを磨いてきました」

そういう人がいれば会ってみたいが、いないだろう。少なくとも私自身、大学生の頃、まさか10年後に、この仕事をしている(というよりも、そればかりしている)ことになろうとは想像するはずもなかった。

新卒入社した、就職・採用支援会社。

内定者である大学4年生の時に、初めて学生向けイベント担当者となって以来、10名~500名規模まで、毎年数十回のイベントを担当してきたけれど、

公開インタビュアーとして必要とされるセンス、上述したような「微妙な点まで悟る力」に関しては、力不足を認識したことはない。指摘されたこともない。

ということは、その「センス」はやっぱり身についていたのだ。

どうして?

「うまくやろう」とする価値観が強かったからだと思う。小手先で何とかしようとする小賢しさ。器用貧乏。憧れの大器晩成評。

野球少年時代、一番指摘されていたのは「腕を振り切れ!」「バット振り切れ!」だった。暴投や空振りという失敗が怖かったから。ボールを置きに行き、バットを当てに行く。

高校時代、学校をさぼっているのに、受験勉強はしていた。学校に反発している(「大人社会なんて!」)、後先考えていないで行動する、そんな風に見られたかったのだと思うけれど、「勉強がそこそこできる」ことは「置かれた環境でうまくやる」ために必要だったのだと思う(面倒なガキだ)。


私は何を言おうとしているのだろう。


公開インタビュアーとしてのセンスは、「うまくやろう」とする価値観をもっていたため、学生時代に素養が培われていた。意図せずに。きょろきょろしながら。

そして今もたぶん、仕事を通じて、プレイベートを通じて、磨かれている。きょろきょろしているから。


ただ、幸か不幸か、仕事はセンスだけでできるものではない。


人が動く。お金が動く。時間を使う。
目的がある。目標がある。手段がある。


セミナーも当然、実施の狙いがあり、着地すべき点がある。

きょろきょろしながら悟っているだけでは、セミナーという船は風の吹くまま気の向くまま、どこかへ流されていくのである(いや、それが目指す着地点なら理想形なのかもしれないけれど。「今日のファシリテーター、ほとんど何もしゃべらなかったけど、あの人必要あったか?」というような)。


セミナー開始から90分後、目指す着地点に、「インタビュー」を通じて、ファシリテーターである私は極力目立たぬように、船を着地させる。主人公である三者の満足度を高めながら。


それは、技巧だ。


誰しも使う「言葉」というツールで、誰しも日々おこなう「コミュニケーション」をとりながら、90分後の着地点に向かって船を導いていく、その技巧は、素人との間には決定的な差がある。

・・・いや、なくては困る。それを商売にしているわけだし。


次回、公開インタビュアーとしての、技巧について考える。


・・・きゃいん。

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